● 伝説を遺して 〜そして未来へ〜 ●
  新たな「宇宙戦艦ヤマト」の伝説が時を刻みだした。
 
 「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」はまさに「西崎ヤマト」の真骨頂であった。
 「さらば宇宙戦艦ヤマト 〜愛の戦士たち〜」の頃から感じられ、後期の旧作でまざまざと見せつけられた「西崎テイスト」が濃厚に詰められた作品なのだ。

 作品の質として客観的に見れば、とても褒められた内容ではないが、西崎氏のヤマトを好きな人で有れば、これ程までに素晴らしい作品は無かったであろう。
 そして西崎氏の情熱が生み出した「復活篇」、西崎氏にしかできななった「宇宙戦艦ヤマト」の新作製作は、さらに新たなムーブメントを巻き起こした。

 「復活篇」で「復活したファン」の登場である。
 長きにわたり眠り続けたヤマト。昔ヤマトファンだった人たちは社会に進出し、親となり、普通の生活をおくっていた多くの人たち。
 その人々を目覚めさせた大きな要因こそ、「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」の最大の価値ではないか?
 西崎氏の大きな思いは、誰も成しえなかったことを実現し、多くのファンを目覚めさせた。
 
 止まっていた時を動かした西崎義展氏、復活のときであった。

 「復活篇」公開前、「宇宙戦艦ヤマト」の新たな新作には他の企画も存在した。
 旧1作目の「リメイク」をするTVシリーズ、「実写版」、そして「完全新作」のTVシリーズ。
 全ては西崎氏の復活で実現性が出て来た企画である。

 西崎氏は満足であったろう。
 自分の大好きなヤマトを復活させ、更に企画も存在し、生きる喜びを感じていた事であろう。
 そしてその動きと思いは、新しいファンを生みだし、新しいクリエーターによる新しい作品を生み出し続けている。今も、そして未来に…。
 「西崎義展の情熱」は、「宇宙戦艦ヤマト」の作品の中に、永遠に刻まれ残り続ける。


 2010年11月7日、西崎義展は彼のロマンを写し続けた小笠原の海に還っていった。



「西ア義展 海に生き 海に還る」

2010年11月7日
汽船「YAMATO」は小笠原諸島父島、二見湾扇浦沖に停泊していた。
一番近い陸地まで150〜200mのところだ。

ここで西崎義展氏はウエットスーツに身を包み、ダイビングをするはずだった。
以前海に潜ったのは何時か?10数年ぶりだったかもしれない。

そんな彼ではあったが、海へのあこがれは老いを知らなかった。
高齢かつ、足腰の弱った体ではあったが、彼はこの日のために事前にプールでの練習をし、この日、初めての本番をむかえようとしていた。

だが、歯車は当初から狂っていた。
入港時、海上保安庁の立ち入り検査…。

当初西ア氏はYAMATOに積載していたアキレスボートHB-490に乗り、ボートごとユニックで吊りさげ、水面に降りる予定でいた。
そもそもYAMATO自体、船から直接ダイビングするには、大き過ぎる船であった。
この船、当初から小型船を着水させ、そこからダイビングに出る事を想定していたのかもしれない。
しかしこのアキレスボート、進水に必要な許可を受けていなかったのだ。

アキレスボートに乗っての着水は、不可能となった。

そこで西ア氏たちは小型船を借りる事を考えた。
西ア氏は、昔から観光客相手の商売をしている父島島民には、釣り好き、ダイビング好きで知られた存在でもあり、馴染みのダイビングショップもあった。
今回もそのダイビングショップから船を借り受け、港からそれに乗りダイビングスポットに移動する計画を立てたのだ。
しかし突然の小型船使用申し出も、予約で埋まっており借りる船は無かった。


他のショップを探す手もあったろう。
しかしそこにも偶然のいたずらか、「YAMATO」を急いで出港させねばならぬ問題が発生した。
定期船「おがさわら丸」の入港である。
「YAMATO」は、11時30分の「おがさわら丸」入港までに、岸壁を空けなばならなかった。

「YAMATO」は当初の予定をクリア出来ないまま、扇浦沖豆腐岩付近に向け出港して行った。



「YAMATO」から海に入るためには、「YAMATO」から直接入水する必要がある。
元々水産学校の練習用船である。船から直接海に入る設計にはなっていない。
ただ「YAMATO」には喫水線まで低くなった船尾に、昇降ハシゴが取り付けられていた。
西ア氏はここから着水する事にしたが、ほぼ垂直、3mのハシゴをまたいだ時点で無理である事を悟ったのだ。

如何にして海に入るか?次に彼が考えたのは、防舷材(ロープにつながった浮きにような物)を束ねたロープを荷物用クレーンで吊るし、防舷材に座り込みロープをつかんで海面へ降りる事だった。
ぶら下がった状態で、ブリッジ前にあるクレーンで3〜4m下の海面に降りるのだ。

クレーンのオペレーターは、甲板上で吊り上げた防舷材上にしがみつく西ア氏に言った。
「大丈夫ですか?」
西ア氏の返答は
「大丈夫」「早く降ろせ」
であった。

私はそれを当の本人、クレーンのオペに直に話を伺ったが、『先生の一挙手一投足、「大丈夫ですか?」と声をかけた。』との事だった。


クレーンは西ア氏を吊るしながら、ゆっくり右舷甲板から海面上に出て行った。

そのとき、クレーンを操作するオペは、西ア氏の赤いグローブがロープから離れたのを見た。
そして「YAMATO」への接触音と、海面への着水音を聞いた。



西ア氏は、うつ伏せで海面に浮かんでいた。
動揺するクルー、そして混乱。
先に海に出ていた者が、すぐに西ア氏を仰向けにする。その間、数分と掛かっていないであろう。
また船上のクルーは、ロープを降ろし西ア氏を甲板まで引き上げようと試みる。
しかし大人数名でも、西ア氏の体はあがらないのだ。


西ア氏は、対岸から通報を受け駆けつけた海上保安庁によって、海から引き揚げられた。
まだそのときは体は温かかったという。
船上では心臓マッサージなど救急処置が施された。
島の港に到着後、緊急車両の中ではAEDも使われた。
運び込まれた先では、医師による蘇生措置も懸命に施された。
その場に付き添っていたI氏は、「医師は良くやってくれました」と語っている。

海を愛し、「宇宙戦艦ヤマト」を創造した偉大なプロデューサー、西ア義展。

西暦2010年11月7日  14時58分  彼は神のもとへ旅立っていった。


文責:北島哲夫

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西崎義展とは
どんな男だったのか?


西崎義展
 彼を一度でも見たことがある人物なら、その存在感の大きさを感じただろう。
 
 まさに『カリスマ』との言葉がピッタリな人物である。
 彼が活躍した時代は、「カリスマ」の時代でもあった。
 弱肉強食、変化も大きいが、時代にのればヒーローに簡単になれた時代。
 そんな時代に彼は生きていた。
 
 そして1974年、彼の生み出した「まんがアニメ」は、40年近く経った今でも語り継がれる名作となり、現在日本のサブカルチャー形成までに影響を与え、時代を動かしている。
 
 アニメ「宇宙戦艦ヤマト」が不変の名作に成りえたのは、「カリスマ」西崎義展が存在したからだ。

 その西崎義展とはどんな人物だったのか?
 彼の才能は何処で培われてきたのだろうか?
 それを語っていきたい・・・。
 (本文中には、一部演出もあり。)