● 虫プロ時代 ●
 虫プロ商事には社員としてではなく、今でいう嘱託的な契約上の関わりだったと思われる。西崎氏は、虫プロの業務を請け負っていたと考えた方が無難だ。ただし、その後期には役員の肩書を持つなど、ただのサラリーマンでは満足しなかったようである。

 仕事を続けるうちに西崎氏の虫プロでのプロモーターとしての手腕は、誰もが認めるものになってきた。
 1971年に「アポロの歌」や「ふしぎなメルモ」をテレビ局に売り込めたのも、彼の力があっての事だ。
 手塚氏からの信頼もあつく、敏腕者と認められ「彼がいれば、虫プロも安泰。」とまで言わせるほどだった。
 アニメ製作に当たっても、西崎氏は思い切った人選をした。才能ある人材を惜しげもなく呼び込み、音楽畑出の才能を生かして、「海のトリトン」ではコルゲンこと鈴木宏昌氏を起用するなど、既存のアニメ製作とは違った路線を作り上げたのだ。

 だが過去の時代がそうであったように、非保守的な動きには拒絶感を示すのも日本的文化であった。
 海外のプロモーションを学んで、その手法を持ち込んだ彼のスタイルを、日本のアニメ従事者は受け入れなかったのだ。
 彼の関わった作品は興行的には失敗を繰り返した。(後にトリトンの作品としての完成度は、高く評価される。)
 また虫プロ商事も経営的に危機的状況にあった。経営陣の経験不足や、アニメ製作のコストの高さは、虫プロにとって最悪の状況を招いた。
 手塚氏はアニメーションに対する想いが非常に強く、自宅などを担保に東映動画に負けないくらいのスタジオを建設したが、当時受け取る製作費は実質製作費の最大1/3程度だった。手塚氏はクリエーターとしては一流だったが、経営者としては全く失格だった。
 さらに当時の労働者による社会運動の影響もあるだろう。
 アニメーターたちは自分たちの権利と待遇改善を叫び、仕事そっちのけで外部の者たちと連帯した。金策に苦しむ使用者と、改善を叫ぶ労働者、制作スタジオの混乱が分かる。
 そんななか、西崎氏は資金調達に奔走し、手っ取り早く調達が見込める虫プロの著作権を売却した。今でこそ著作権は保持者にとって命の様な大切なものではあるが、新たな著作物・作品を生み出す“神様”がいるなかでは、西崎氏にとって会社の存続が第一であり、既存の権利売却はさほどのウエイトではなかったのだろう。
 しかし既に状況は最悪、焼け石に水状態、西崎氏の金策もむなしく会社の経営は窮地に至った。そして著作権を奪われた手塚氏には「西崎氏に騙された」とまで言われたが、当時の状況として虫プロを倒産から免れる為の手段として、西崎氏が著作権の売却を行なった行為に対し、彼一人を責めるのは酷であろう。

 西崎氏にとって新たなジャンルの世界で挫折を味わった経験、これが後の「宇宙戦艦ヤマト」を作り出す第一歩となるとは、西崎氏本人も予想すらしなかっただろう。


website TOP

SUB MENU



西崎義展とは
どんな男だったのか?


西崎義展
 彼を一度でも見たことがある人物なら、その存在感の大きさを感じただろう。
 
 まさに『カリスマ』との言葉がピッタリな人物である。
 彼が活躍した時代は、「カリスマ」の時代でもあった。
 弱肉強食、変化も大きいが、時代にのればヒーローに簡単になれた時代。
 そんな時代に彼は生きていた。
 
 そして1974年、彼の生み出した「まんがアニメ」は、40年近く経った今でも語り継がれる名作となり、現在日本のサブカルチャー形成までに影響を与え、時代を動かしている。
 
 アニメ「宇宙戦艦ヤマト」が不変の名作に成りえたのは、「カリスマ」西崎義展が存在したからだ。

 その西崎義展とはどんな人物だったのか?
 彼の才能は何処で培われてきたのだろうか?
 それを語っていきたい・・・。
 (本文中には、一部演出もあり。)