虫プロ商事には社員としてではなく、今でいう嘱託的な契約上の関わりだったと思われる。
 西崎氏は当時、自分が社長のオフィス・アカデミーを設立しており、虫プロの業務を請け負っていたと考えた方が無難だ。
 
 仕事を続けるうちに、西崎氏の虫プロでのプロモーターとしての手腕は、誰もが認めるものになってきた。
 1971年に「アポロの歌」や「ふしぎなメルモ」をテレビ局に売り込めたのも、彼の力があっての事だ。
 虫プロの信頼もあつく、手塚氏からも敏腕者と認められ、「彼がいれば、虫プロも安泰。」とまで言わせるほどだった。
 
 アニメの製作に当たっても、西崎氏は思い切った人選をした。
 才能ある人材を惜しげもなく呼び込み、音楽畑出の才能を生かして、「海のトリトン」ではコルゲンこと鈴木宏昌氏を起用するなど、既存のアニメ製作とは違った路線を作り上げたのだ。
 
 だが過去の時代がそうであったように、非保守的な動きには拒絶感を示すのも日本的文化であった。
 海外でのプロモーションを学んで、それをアニメの世界に持ち込んだ彼のスタイルを、アニメの世界では受け入れなかったのだ。
 彼の関わった作品は、興行的には失敗を繰り返した。(後にトリトンの作品としての完成度は、高く評価される。)
 
 また虫プロ商事も、経営的に危機的状況にあった。経営陣の経験不足や、アニメ製作のコストの高さは、虫プロにとって最悪の状況を招いた。
 手塚氏はアニメーションに対する想いが非常に強く、自宅などを担保に東映動画に負けないくらいのスタジオを建設したが、当時受け取る製作費は、実質製作費の最大1/3程度だった。手塚氏はクリエーターとしては一流だったが、企業家としては失格だった。
 そんななか、西崎氏は資金調達のために虫プロの著作権を売却したが、既に状況は最悪、焼け石に水状態、手塚氏には「西崎氏に騙された」とまで言われたが、当時の状況として、虫プロを倒産から免れる為の手段として、西崎氏が著作権の売却を行なった行為に対し、彼一人を責めるのは酷であろう。
 
 
虫プロ時代
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