ヨーロッパで彼が学んだ事は、今までの日本的ビジネスとは違っていた。
ショービジネスおいて、プロモーターは絶対だった。
金の流れから、役者の選択まで、そして成功すれば驚くべき大金が手に入るが、失敗すれば破滅する。そんな世界を自分の目で見てきた。自分もいつか成功する日を夢見て。
朝鮮戦争特需の影響が残る日本に、海外での放浪生活から帰ってきた西崎氏は、新宿や六本木でクラブの司会などをしていた。
有名なクラブ・リーでは、スマイリ−小原氏の率いるスカイ・ライナーズが毎晩華麗なステップでバンドを指揮し、喝采をあびていた。
ここにはその後、日本の音楽界に名をはせる多くの作詞作曲家やアーティストもたびたび足を運び、
エルビスのような頭の西崎氏が毎晩マイクを握っていた。
この頃、その後のジャニーズ事務所を創るジャニー・喜多川氏と知り合ったのかもしれない。
ジャニー・喜多川氏との関係は後の事として、西崎氏がYAMATO2520製作時、主題歌をSMAPに歌ってほしく話しを持ちかけたところ、ジャニー・喜多川氏に「今売り出し中の若手グループがいるから、そいつらでどうか?」と言われ、結局TOKIOに主題歌を歌わす事になった。
こうしてクラブの司会や、幾つかのプロモーションをこなすうちに、営業マンとしての西崎氏の手腕に多くの人が目をつけるようになってきた。
ただ、怖いもの知らずのエネルギッシュな行動は、時に身の危険も招いたりもした。
ある興行先では、地元で幅を利かす任侠の方々ともめて、弾丸が顔をかすめたりもしたが、そんな時でも彼は強い運命で守られていたのかもしれない。
1960年代初期、西崎氏は虫プロ商事の後藤氏から誘いを受けた。
これが偉大な作品、宇宙戦艦ヤマトを作り出す第一歩となるとは、西崎氏本人も予想すらしなかっただろう。