● オフィス・アカデミー ●
 1957年頃から西崎氏は、ジャズ喫茶の司会、喫茶店のボーイ、バーテンダーなどをしていた。
 有名なクラブ・リーでは、スマイリ−小原氏の率いるスカイ・ライナーズが毎晩華麗なステップでバンドを指揮し、喝采をあびていた。
 ここにはその後、日本の音楽界に名をはせる多くの作詞作曲家やアーティストもたびたび足を運び、エルビスのような頭の西崎氏が毎晩のように司会としてマイクを握っていた。

 そのうち「ダン池田とアフロキューバン」「東京マンボ」などのマネージャーを務め、全国の興行にも出かけた。
 そんな幾つかのプロモーションをこなすうちに、営業マンとしての西崎氏の手腕に多くの人が目をつけるようになり、九州・飯塚の「安田事務所」から東京の東京荷役を任されるまでになった。
 また安田事務所に勤めるにあたって、名前を『義展』に変えるように言われ、以後「西崎義展」で通すことになる。

 推測ではあるが、この頃、その後のジャニーズ事務所を創るジャニー・喜多川氏と知り会っていたのかもしれない。
 ジャニー・喜多川氏との関係は深く強かったようで、1990年代後半の事として、西崎氏がYAMATO2520製作時、主題歌をSMAPに歌ってほしく話しを持ちかけたところ、ジャニー・喜多川氏に「今売り出し中の若手グループがいるから、そいつらでどうか?」と言われ、結局TOKIOに主題歌を歌わす事になった。

 1963年10月、「株式会社オフィス・アカデミー」を設立。
 民音を中心とした舞台制作。200本を数える。
 1968年、オフィス・アカデミーを解散。西欧に渡り、フランスのプロモーターの下で働き、自分の仕事には財界・政界との付き合いも必要であることを知る。

 1970年帰国。財界人秘書などの後、虫プロ商事の後藤氏から誘いを受け、手塚治虫氏のゼネラル・マネジメントを務める事となる。
 これが偉大な作品、宇宙戦艦ヤマトを作り出す第一歩となるとは、西崎氏本人も予想すらしなかっただろう。
 1972年、再びオフィス・アカデミーを設立。代表に就任する。
 一方個人として、「株式会社瑞鷹エンタープライズ」の製作担当重役として、プロデュースに従事した。


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西崎義展とは
どんな男だったのか?


西崎義展
 彼を一度でも見たことがある人物なら、その存在感の大きさを感じただろう。
 
 まさに『カリスマ』との言葉がピッタリな人物である。
 彼が活躍した時代は、「カリスマ」の時代でもあった。
 弱肉強食、変化も大きいが、時代にのればヒーローに簡単になれた時代。
 そんな時代に彼は生きていた。
 
 そして1974年、彼の生み出した「まんがアニメ」は、40年近く経った今でも語り継がれる名作となり、現在日本のサブカルチャー形成までに影響を与え、時代を動かしている。
 
 アニメ「宇宙戦艦ヤマト」が不変の名作に成りえたのは、「カリスマ」西崎義展が存在したからだ。

 その西崎義展とはどんな人物だったのか?
 彼の才能は何処で培われてきたのだろうか?
 それを語っていきたい・・・。
 (本文中には、一部演出もあり。)