● 若き日の西崎義展 ●
  吹けもしないセルマーを毎日持ち歩き、冷戦下のドイツ、アメリカ兵が集まるバーで雑用係りをする日本人がいた。
 この冷戦最前線では、アメリカ本土でいまだに続いていた人種差別も無く、黒人兵も白人兵も、同じビールを飲みながら流れるジャズに癒されていた。
 雑用係の彼は、なんの目的も見出せないまま地球の裏側まで来てしまったが、アメリカ兵と共に聴くジャズの音色には、いつも心を奪われていた。

 司会の仕事も回ってくる。我流の癖のある英語で話す彼の姿は、彼らにどのように映っただろう。
 そうした中で彼は、ショービジネスとは何かという事をこの海外で学び、西洋人と東洋人の精神的違いを知り、音楽にはその精神的違いが無い事を学んだ。


 昭和9年(1934年)12月18日、東京小石川に彼は生まれた。
 「さらば」の頃のデータによれば、身長180cm、78kg、胸囲100cm、ウェスト88p、視力右2.0・左0.7、血液型はO型。
 祖父は薬学博士の西崎弘太郎。タカジアスターゼなどの研究に従事し、当時の東京女子薬学専門学校の校長を務めた。
 祖母は「鹿鳴館の名花」と言われた綾乃(“綾野”との記載も多数存在する)。戦前の雑誌などに礼儀作法についてなどの執筆がある。
 父は当時の日本特殊鋼の役員などを務めた正。母は秋子。正の妹は日舞の西崎流・初代西崎緑である。
 義展、本名弘文は長男として生まれ、弟に隆二郎、姉に陽子(小口陽子)がいる。
 家系的には申し分のない、恵まれた一族だ。
 ここで西崎家の歴史を、詳しく見てみよう。

 西崎家の先祖は、東京女子薬学専門学校(現・明治薬学大学の前身)編さんの「西崎弘太郎先生」によれば、姓を金子と称し、織田信長に仕え、滅亡後は備前国御野群西崎村(現・岡山県岡山市)に移住し、姓を西崎と改めた。その後津高郡栢谷村(現・岡山市北区)に居住し代々大庄屋を勤めた。

 西崎義展の曾祖父を旧岡山藩士・西崎健太郎という。
 岡山県下の教育の場では度々活用される書籍「岡山伝記文庫 郷土にかがやく人々2 (日本文教出版・1977年改訂版)」に、彼の名を見ることができる。岡山でブドウ栽培などに貢献し、国文や漢学に長けた森芳滋を中心とした学問グループがあり、そこで学び後に有名になった人物として西崎健太郎の名前が記されている。(ただしこの書籍では健太郎の肩書が"薬学博士"となっており、これは明らかな間違いである。)
 また「中国銀行五十年史」によれば、1894年(明治27年)に岡山銀行の設立に貢献するなど、実業家として活躍した。
 妻は現・岡山市北区御津野々口の大庄屋だった大村家の血を引く常(常子)である。

 岡山の地を離れて名を馳せたのは義展の祖父、弘太郎からだ。
 1870年(明治3年)、健太郎と常の間に長男・弘太郎が生まれた。岡山で少年時代を過ごした後、弘太郎は上京し旧制一高に入学する。
 東京帝国大学に学び、仙台で薬学の教鞭を執る。その後横浜衛生試験所、東京衛生試験所、警視庁などで今でも取り上げられる数々の研究論文を発表、また東京の衛生保健に貢献した。
 その後1933年(昭和8年)、東京女子薬学専門学校の校長に就任。
 前出の「西崎弘太郎先生」によれば、弘太郎の教育者としての姿勢がうかがい知れる。
 生徒には「私は皆さんをガールではなくレデイと考えている。(原文のまま)」と語り、教師には「淑女として取扱へ、萬時生徒の自治に委ねよ、学校は出来るだけ干渉するな。」「人間の資質としては女性も決して男性に劣らない。むしろ男性より優れているところがあるから自重せよ。卑下してはいけない。」と語る。
 1938年(昭和13年)、赤坂前田病院にて死去。前田病院は、西崎義展が出所後に入院した病院でもある。

 祖母は綾乃、旧姓木村。弘太郎が仙台で在職中に結婚。綾乃、18歳。
 綾乃の父は旧倉敷町町長(現岡山県倉敷市)・木村和吉である。
 和吉は倉敷の商人の子で、当時はやりの醤油問屋や、畜産業などを営む傍ら、倉敷地区におけるキリスト教発展の礎を築いた人物であり、日本基督教団の関係資料に名前を見ることができる。
 綾乃は京都同志社女学校を卒業、外国語に堪能で才色兼備の佳人と評された。その美しさは羨望の的であり、一目見ようと弘太郎の住まいには勉学を口実にした若者が押し寄せたという。
 ピアノを学び、声楽家になる夢をいだいていたがその夢は娘へとたくし、良妻賢母の道を決意、英語の個人教師をしながら弘太郎を支える。仏英和高等女学校の理事、当時の雑誌などに礼儀作法などを説いた記事を多数寄稿。


横浜時代の西崎家(「西崎弘太郎先生」出典) 左から正・弘太郎・綾乃・緑
 弘太郎と綾乃の長男が義展の父、正だ。そして母が秋子。
 正の若き日は戦前のエリートコースを無難に過ごし、旧日本興業銀行を経て、財界・実業界で成功し企業の役員を務めていた。後年、舞踏や日本舞踊の解説・編集に関わる。
 正の妻秋子も名家の出身である。父は水谷叔彦。明治期の大日本帝国海軍における機関少将までのぼりつめた技術者であり、海外の技術を積極的に導入し日本の近代化に貢献、当時の日本製鋼(株)の役員などを勤めた。また日本人で初めてゴルフをした人としても知られる。
 義理の母綾乃の流れもあってか、当時の「主婦の友」などにも寄稿している。
 秋子は敬虔なクリスチャンでもり、秋子の兄・水谷九郎は築地教会の神父であった。そのため長男弘文の洗礼を強く強く望んでいたそうだが、弘文はなかなか洗礼を受けようとはしなかった。(本来西崎家のキリスト教は綾乃によるプロテスタント系であったが、正・秋子の時代から明確にカトリックになっている。)

 
 正と秋子の長男として生まれた弘文、その幼少期は恵まれたものだった。
 学者の祖父に財界人の父、良妻賢母で多才な祖母、深き愛情を持った母、叔母緑から続く「音楽」と「芸能」、そして多業種にわたる「人」との関わりは、弘文の感受性に多大な影響を与えた。
 戦前の時代に家族でコンサートに出かけ、蓄音器がそばにあり、少し離れたところには西崎緑とその生徒たちの稽古の場がある。音楽と芸能に囲まれた時代だった。
 青年期、父親との関係は良くはなかった。「東大以外は学校に非ず」の厳しい家庭にありながら、開成中学の受験に失敗したり、父親に乞食呼ばわりされる「文学座養成所」に入るなどし、父親との関係はギクシャクしたものがあった。
 そんな事もありあまり家にも居すわらず、新し物好きの技術者である母方の祖父・叔彦の家に雲隠れしたりし、ときには家出同然の生活をしていた。
 警察沙汰もしばしば。そのつど父正は関係各所に頭を下げて回っていたのだが、それを知ってするのか、知らないでするのか、弘文は自由奔放な生活を繰り返していた。
 だがただ遊びほうけていた訳ではない。映画館に通いつめ、同じ映画を1回目は字幕を見ながら、2回目は字幕に少し目をやりながら、3回目で字幕を見ないで英語をマスターしたり、働き先で幼少期には出会えなかった多種多様な人々の生きざまを観察していた。
 一時期、西崎緑のマネージャー、後の夫となる内海通吉のアシスタントで緑の興行について回ることにより、プロモーションも学んでいった。


 恵まれた環境と生まれ持った才能、そのまま名家のレールに乗ればきっと違った西崎弘文がいたに違いない。
 だがそれを嫌った西崎義展、それには、彼なりの理由があったからだ。
 彼の目線は日本の伝統文化だけではなく、戦後の日本に訪れた変革の嵐の中に希望や興味を抱き、新しい時代を見出したのだ。


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西崎義展とは
どんな男だったのか?


西崎義展
 彼を一度でも見たことがある人物なら、その存在感の大きさを感じただろう。
 
 まさに『カリスマ』との言葉がピッタリな人物である。
 彼が活躍した時代は、「カリスマ」の時代でもあった。
 弱肉強食、変化も大きいが、時代にのればヒーローに簡単になれた時代。
 そんな時代に彼は生きていた。
 
 そして1974年、彼の生み出した「まんがアニメ」は、40年近く経った今でも語り継がれる名作となり、現在日本のサブカルチャー形成までに影響を与え、時代を動かしている。
 
 アニメ「宇宙戦艦ヤマト」が不変の名作に成りえたのは、「カリスマ」西崎義展が存在したからだ。

 その西崎義展とはどんな人物だったのか?
 彼の才能は何処で培われてきたのだろうか?
 それを語っていきたい・・・。
 (本文中には、一部演出もあり。)