● 西崎ヤマト ●
 宇宙戦艦ヤマト第一作で沈没寸前のヤマトを救ったのは、西崎プロデューサーの強い思い入れだった。
 アニメ作品にしては豪華すぎる劇判音楽を製作したり、海外セールの為に英語版を企画するなど、第一作製作時からの主導的企画・製作意欲は、後の作品製作時にも受け継がれた。
 だが第一作後の作品群には、製作者としての“儲けを作り出す”有能なプロデューサーの顔だけではなく、徐々に“ヤマトファン”としての顔も大きくなってきたのだ。
 供給者と需要者が同じ人間の弊害は、幾つかの対立を生み、崩壊も生み出したのだ。

 1983年公開の「宇宙戦艦ヤマト完結編」では、そのほとんどが西崎氏の“思うがまま”状態となっていた。
 そこに一作目を作った時のような“共同制作”の姿は無かった。
 
 多くのコンテンツにおいて、製作・企画側としてのラインと、理想や究極的な自己満足を求めるファンのラインとは、そう簡単に一致する事は無い。
 西崎氏はヤマトを製作する事が出来る立場にありながら、自己満足を自ら製作する作品に求めていた。そこには他の製作者の意向や、他のファンの意向はあまり反映されなかった。
 “俺の満足する作品を作る”これが映画製作予算を増やし、作品を大幅にカットしないと映画館にかけられないフィルム時間となり、公開日さえも延期させてしまった。
 当時は配給先からの圧力などもあり、この「完結編」は1983年3月19日の公開となった訳だが、この圧力が無ければ西崎プロデューサーは、まだまだ作品を作り直していた事だろう。

 そしてこの西崎氏のスタンスは、結局その後の新作を市場に出せない結果となってしまった。これはプロデューサーとして、失格である。
 また松本零士氏との関係もギクシャクする事となったが、松本キャラ・メカにも惚れ込んでいる西崎氏は、わざわざ松本氏がヤマトの原作者である事を認めるかのような手紙を松本氏に送るなどし、松本氏を常にたてていた。
 ただ残念な事に、その松本氏の方は西崎氏を疎ましく思っていたようである。
 朝日放送「探偵!ナイトスクープ」で、元レギュラーの北野誠氏が取材に零時社を訪れたさいにも、西崎氏からの電話に松本氏が疎ましさをさらけ出しているシーンがあった。

 西崎ヤマト 西崎氏が好いても松本氏が嫌う。
 この構図は結果としてファンを悲しませる事態を招いた。
 そして当の西崎氏は、社会的に制裁を受ける行為に足を踏み込み、その贖罪の日々を送る毎日である。(2007年12月満期)
 ただ西崎氏に幸いな事は、老いた身に贖罪を重ねながらも、宇宙戦艦ヤマトの新作を作ろうとする気持ちが消えていない事である。
 西崎氏にとってヤマト製作は、生きる目標であり、無限の可能性を秘めた生命なのだ。
 今はどん底の渦中の人物ではあるが、セルマーを片手に放浪したあの時を思い出し、ゼロからの出発を見届けたい。
 
 そして、宇宙戦艦ヤマトシリーズが訴えかけてきた思いは、ファンの中に生き、今も航海を続けて、たとえ西崎氏が続編を作らなくても、大局で“西崎ヤマト”と同じ思いを持った人たちにより、新たな宇宙戦艦ヤマトが作られる事であろう。(2006年時点)


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西崎義展とは
どんな男だったのか?


西崎義展
 彼を一度でも見たことがある人物なら、その存在感の大きさを感じただろう。
 
 まさに『カリスマ』との言葉がピッタリな人物である。
 彼が活躍した時代は、「カリスマ」の時代でもあった。
 弱肉強食、変化も大きいが、時代にのればヒーローに簡単になれた時代。
 そんな時代に彼は生きていた。
 
 そして1974年、彼の生み出した「まんがアニメ」は、40年近く経った今でも語り継がれる名作となり、現在日本のサブカルチャー形成までに影響を与え、時代を動かしている。
 
 アニメ「宇宙戦艦ヤマト」が不変の名作に成りえたのは、「カリスマ」西崎義展が存在したからだ。

 その西崎義展とはどんな人物だったのか?
 彼の才能は何処で培われてきたのだろうか?
 それを語っていきたい・・・。
 (本文中には、一部演出もあり。)